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私の想い・院長プロフィール

私の想い(自己紹介)

訪問マッサージBUDDY院長の中島拓郎プロフィール画像

初めまして。訪問マッサージBUDDY院長の中島拓郎(なかしまたくろう)と申します。
簡単な自己紹介をさせていただきます。

1984年5月10日生まれ。習志野市出身。
市立習志野高校卒業後、野球部時代にお世話になった鍼灸マッサージの先生に憧れて治療家を目指します。

あん摩マッサージ指圧師、鍼灸師、柔道整復師の国家資格を取得し、某鍼灸マッサージ整骨院の院長を5年間務めた後、自費の治療院を開業。事情があり3年で治療院を閉院することになるのですが、2021年に今の天職である訪問マッサージという仕事に出会いました。

昔からおばあちゃん、おじいちゃんと話をすることが大好きだったこと、マッサージや鍼灸を通じて人と人とのお付き合いが始まり信頼関係を築いていけること、「ありがとう」と感謝して頂ける素晴らしい仕事に出会ったことは私の最高の宝物です。

私は生まれてからずっと千葉県に住んでいます。
千城台で生まれ、習志野市で年少~青春時代を過ごしました。その頃は正直何も思っていませんでしたが、当時私がお世話になったたくさんの方々が今では高齢者になっています。
私は地元が大好きなので、そんな地元の方々のお役に少しでも立てればと思い、習志野市、船橋市を中心に日々訪問マッサージに奮闘中です。

事業所名のBUDDY(バディ)には、「相棒」「親しい仲間」という意味があります。
ご利用者さんにとって、信頼出来て心の通った相棒のような存在になることが私の目指す目標であり、生きがいです。
正直、現時点では訪問マッサージという在宅医療サービスを知っている方はまだまだ少ないのが現状だと思います。
ですが、私は要支援・要介護認定を受けている方にとって、訪問マッサージが必ずあなたの生活をより良くすると確信を持っていますし、あなたのお役に立てる自信があります。
身体の痛みやしびれに困っている方、歩きたいけど、歩くのが辛くて困っている方、
自宅で受けられる本格的なリハビリマッサージを探している方、是非とも私にお任せください。
私が最後まで責任を持って施術させて頂きます。

訪問マッサージBUDDY
院長 中島拓郎

誕生

1984年(昭和59年)5月10日生まれ。
中島家の次男として生まれる。兄弟は3つ上の兄と3つ下の妹。

色黒なので、何かスポーツやってたの?とよく聞かれますが、、、、(高校球児でした)
母によると「あなたは生まれた時から黒かったわよ」だそうです。笑
兄は真っ白で優しそうな顔で生まれたらしく、私が生まれた時母は「本当に私の子かしら?」とビックリしたとか笑
母いわく「あなたは色が黒くて、目つきが鋭くて強そうだった」だそうです。笑

小学校時代

物心ついたときから体力が有り余っていて、両親は私のエネルギーをどうやって発散させようか常に考えていたそうです。
小学2年の時に、友達がやっていた少年野球が楽しそうで始めました。

そして野球と並行して小学4年の時にバスケを始めました。
野球はエースで4番、バスケはキャプテンをやっていて、土日の試合でどちらに出ようか頭を悩ませていましたが、当時はバスケの方が好きでバスケの試合を選んでいたと記憶しています。

中学校時代

ここで私の中で人生最初のターニングポイントが訪れます。中学の部活を、野球とバスケどっちにするのか?という問題。
当時はまだバスケにプロがありませんでした。(今でこそBリーグがありますが)正直、好きなのはバスケでしたが、将来もしかしたらプロになれるかもという甘い考えで中学から野球一本でいくと決めたことを覚えています。(卒業文集の将来の夢に「プロ野球選手」って書くやつです。笑)意気揚々と中学野球部に入りましたが、現実は甘くはありませんでした。
中学3年間で公式大会で試合に勝ったことは………ゼロ。(1回勝ったかな?笑)

ただ、その後に予期しない事が起こっていきます。私は中学時代、公式試合に勝ったことはありませんが、中心選手として試合に出ていたので、幸運にも習志野市の中学選抜チームに選ばれたのです。
習志野市の中学は7校あるのですが、1校につき2~3名が選抜されてチームを結成しました。
そこから習志野選抜チームの快進撃が始まりました。戦連勝で県大会優勝、関東大会優勝を成し遂げるのです。(当時、全国大会はありませんでした)

この経験で私は初めて「勝つ喜び」を覚えます。
高校入試を控え進路を決めかねていた私に、野球部顧問から「習志野高校から野球推薦が来た。挑戦してみるか?」と聞かれ、すぐに「はい!」と返事をしていました。こうして来春、習志野高校への進学が決まります。

高校時代

高校時代の3年間を一言で表すと・・・・「青春」という感じですね。目標に向かって朝から晩まで野球漬けの毎日。自主練をして帰宅するのは夜11時を過ぎることも多々ありました。

野球部入部初日。ドキドキする不安とワクワクする期待とが入り混じった感情でグラウンド入り。 ここから私の2つの目標を達成する為の日々がスタートしました。

1つ目・・・習志野高校でエースになる
私は中学時代キャッチャーをメインでしていましたが、習志野高校から推薦を貰った時点で「ピッチャーとして勝負する」と決めていました。昔から肩が強く球が速かったので、自分の可能性に懸けてみたかったのです。
野球部の部員数は約120人。ピッチャーだけで約30人。1年夏のケガ(右肘の剥離骨折)、フォーム改造(オーバースローからサイドスローに変更)など、色々なことがありましたが、3年の春にエースナンバー背番号「1」を貰うことが出来ました。

2つ目・・・甲子園出場
高校球児の夢はなんといっても「甲子園」です。私が高校2年の夏、1つ上の先輩が甲子園に連れて行ってくれました。

3年の夏。夢の甲子園への最後の夏がやってきました。シードで2回戦からでしたが、順調に勝ち上がり4回戦。かつての仲間の中学習志野選抜チームのバッテリー率いる八千代高校に負けて、私の高校最後の夏が終わりました。この時、試合に負けて初めて悔しくて涙が出たことを覚えています。

悩んだ進路選択

高校野球を引退して、すぐにぶつかった悩み。それは今後の進路選択です。
高校の3年間は野球ばかりしていて、ろくに勉強していなかったので笑、大学で野球を続けるか、専門的な道に進むかの2つに絞りました。高校の3年間で上には上がいることを知り、野球で飯を食っていくのは難しいと自分の中で思ったのと、中学3年の時から高校3年までの4年間ずっと通っていた鍼灸院の先生の顔が浮かび、自分も人を治したり、サポートする道に進むことを決めました。

7年間の専門学校生活を経て、社会人に。

7年って結構長いですよね。自分でもよくこんなに勉強したなって思います。笑 こんなにたくさん学ばせてくれた父には本当に感謝しかありません。

高校卒業後、最初に入学した専門学校はスポーツトレーナーの学校でした。
当時は自分が野球をやっていたので、スポーツ選手をサポートしたいという気持ちで入学したのですが、いざ勉強をしたり、ヤクルトスワローズの2軍に実習に行かせて頂いたときに、理想と現実のギャップを知ることになります。

そして、治療に興味が出た私はカイロプラクティックの専門学校に入学します。
治療のことを勉強していると、今度は「独立開業」したいという夢が出来ました。色々調べていると、独立開業するなら国家資格があったほうが有利だと分かり、ここでやっと鍼灸あん摩マッサージ指圧師と柔道整復師という国家資格が取れる専門学校に入学することになるのです。

計7年間で4つの国家資格と取り、スポーツトレーナーやカイロプラクティックを学んだ私ですが、最初の就職先として選んだのは鍼灸マッサージ整骨院でした。

某鍼灸マッサージ整骨院の院長を経て、夢の独立開業へ

鍼灸マッサージ整骨院に就職後、半年で副院長になり、1年後には院長を任されることになりました。
院長として約5年間色々なことを試したり、実践していき、独立開業出来る自信がついた2017年(32歳)に会社を辞めて治療院を開業します。

独立開業後に知った理想と現実

私が独立開業したかった理由の一つは、正直に言うと収入にありました。当時結婚して子供が二人(長女2歳、次女6か月)いた私は、この収入では家族を満足に養っていけないと思い、自分の資格を活かし独立開業することを決めます。開業後半年ほどで事業を軌道に乗せることができ、満足な生活が出来るようになりました。

しかし…
勤務時代より収入が増えて嬉しい気持ちと反面、一人治療院のリスクについて考えることも次第に多くなっていきました。 そして、開業から約3年が経った日、私は治療院を閉めるという決断をします。

コロナ禍 福岡の施設にいる祖母との面会

2021年11月末。福岡の施設に入った祖母に久しぶりに会いに行きました。たまに電話はしていましたが、コロナもあり会うのは何年か振りだったと思います。

祖母は緑内障で目がほぼ見えておらず、施設を訪問した時はコロナ禍ということもあり、ガラスドア越しの対面となりましたが、私が声を掛けると「拓ちゃん?拓ちゃんなの?よく来てくれたね。本当にありがとう。」ととても喜んでくれました。

その後、ドア越しに色々な思い出話に花を咲かせて、約30分の面会を終えましたが、面会を終え、帰る時に祖母と握手した時の力強さ、祖母の手の感触は今でも鮮明に覚えています。

翌年の夏、祖母は92歳で亡くなりましたが、あの時勇気を出して福岡に行って祖母と会って話が出来たことは本当に良かったと思います。

訪問マッサージとの運命の出会い

私が新たに選んだ仕事は、後に天職となる「訪問マッサージ」でした。
訪問マッサージを選んだ理由は、私が尊敬している昔の職場の先輩が地方に帰って訪問マッサージを開業していて、すごく楽しそうに生き生きとしていたこと。そして、たまたまある企業が訪問マッサージの立ち上げで責任者を募集していたので、すぐに応募して無事に採用されます。

しかし、実際に訪問マッサージの業務に入ってから、色々なことを知ることになります。
まず、在宅で治療を受けたい人がたくさんいること。需要が高いのに供給が全く足りていないこと。在宅医療では、訪問診療、訪問看護、訪問リハビリ、訪問介護、訪問マッサージなどのサービスが連携して一人の方を「地域包括ケアシステム」として支えている事。
一人の高齢者をサポートするのにこんなにたくさんの人が協力しているとは全く知りませんでした。訪問マッサージはまだまだ認知度や実際に利用している方が少ないのが現状です。

ただ、実際に利用者さんにマッサージをすると「楽になったわ」「気持ちが良い」「歩けるようになった」などたくさんの喜びの声を頂きます。
私はこの「訪問マッサージ」を地域包括ケアシステムの一環としてもっと地域の方々に知ってもらいたいと強く想うようになりました。

夢を諦めきれず、訪問マッサージで2回目の独立開業

訪問マッサージに勤務して約1年半ほど経ち、自分の中でこのような感情、言葉が頭に浮かぶようになります。

「本当にこのままでいいのか」

「このままで後悔しないのか」

私が最初に独立開業した理由として、家族に不自由な暮らしをさせたくない。父が私にしてくれたように、自分の子供たちにやりたいことをやらせてあげたい。お金を理由にして子供たちにやりたいことを諦めさせるということだけは絶対に避けたい。このような想いがありました。この想いを叶える為に、私は2度目の独立開業をすることになります。

私は訪問マッサージという仕事が本当に大好きです。
この大好きな天職で、地域に少しでも貢献出来るように精一杯頑張っていきたいと思います。

最後まで見て頂いてありがとうございました!

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